回転するカヤック
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だから結局、守は半ば行き倒れの兼彦を引き摺って、学食で昼を食べている。守は韓国冷麺に箸をつけ、目の前には冷房が効いているから、という理由で熱い狸うどんと親子丼のセットをがっついている兼彦が座っている。ちなみに兼彦の食事代は守の財布から出ているのだが。
「やっぱり人間食べないと駄目だよね」
食べたところで、たかが学食数百円の飯を後輩にたかるようではやっぱり人として駄目だろうと守は思う。そしてそれを指摘したとしても、この先輩の駄目さ加減は直らないだろうとも思った。
「あぁ、生き返ったよ、西川君。このお礼は必ずするからね」
「はぁ」
期待はしていませんが、と守は冷麺の最後のひとすすりを口に収めた。
「ところで僕の疑問についてなんだけれどね」
疑問があるというのはただの言い訳ではなかったのか。学食にくっついてくるための言い訳だと頭から決めてかかっていた守は、ちょっと反省した。兼彦は目の前の守がひとり反省会を開催しているとは露知らず、のほほんと悩みのなさそうな顔で疑問を――矛盾しているが――繰り出した。
「カヤックが気になるんだよ」
絶賛ひとり反省会の最中だった守は、まったく予想外の単語が出てきて聞き間違いかと思って問い返した。
「……カヤック?」
「そう、カヤックだ。よく芸術学類の側の池で練習しているだろう? 今日倒れながら何気なく見ていたら、気になる動きをするんだな。これが、こう、こうやって」
兼彦は食べ終えた丼の縁に割り箸を引っ掛けて、縁を滑らせるようにして縦と、横に向きを変えて見せた。
「……つまり、カヤックが池の上で回転しているわけですか?」
「そう」
守はしばらくの沈黙の後、一番無難な考えを導き出した。
「単に方向転換の練習をしているだけでは?」
最初は僕もそう思ったんだけれどね、と兼彦はぼさぼさのむさくるしい頭を横に傾ける。
「そうじゃあない、と思うんだよね。それはそれは綺麗に静止するんだ。こう、右回りに回って縦になるだろう? 数秒でまた右回りして横になって静止。それからまた縦になるかと思いきや、回転の途中で戻ってまた横で静止。時折それに一回転が入る。ずっと見ていたんだが、縦と横の間隔に規則性は見当たらないんだよね。でも絶対前に進んだりしないんだ。その場で回転するか、静止するか。おかしいだろう?」
日頃から謎を見つけ出すことに熱心なミス研部員と違って、守は何でも無難に乗り切ろうとするタイプなのでそこまで積極的に謎を定義したくない。
「話だけ聞いていたら確かに不審に感じられますけど」
渋る守に気づきもせず、お昼を食べて元気になった兼彦の声は大きくなる。
「見ていても確かに不審だったんだよ。僕意外に気づいた人間はいないようだけれどね。何かしらの暗号ではないかと思うんだけれど。モールス信号でもなさそうだし……。君は何だと思う?」
何だと思うと言われても、やはり第一には単なる練習、としか思えなかった。カヤックに詳しいわけではないから、そういう練習方法もあるのかもしれないと考えて当然だ。けれど守は、縦と横に数秒静止するカヤックの動きを想像してみた。芸術学類の側の池は、少し低めの位置にあるから、いくら兼彦が倒れていたとしても、道から見たらカヤックは少し斜め上から見下ろす形になるだろう。それが池の上で、縦、または横に回転して静止する。縦と横は交互ではなく、兼彦の言うところによると規則性もなくランダムに現れる。そして縦横の静止に対して、一回転するという動作が時折入るという。
確かに想像してみると何かの信号のように感じられるな……。
兼彦はモールス信号ではないと言うが、その縦横の組み合わせを思い出せと言ってもきっと再現はできないだろう。一回転という動作がどれくらいの頻度で現れるかも分からないとなると。それでは守もお手上げだと思えなくもなかったが、気になって別の視点から考えてみることにした。
つまり、それが信号だったとして、カヤックは誰に信号を送っていたのか、ということだ。逆に言えば、あのカヤックの信号を読み取るのに、一番適当な場所はどこなのか。
「……先輩、時間割表持ってます?」
池と大学の建物の位置を思い出して、ひとつの可能性を頭に浮かべた守は、自分の考えを確かめたいと思った。しかし生憎、前期の履修を決めてすでに三ヶ月経っている。すでに一学期の期末に突入するという月になって、まだ時間割表を持ち歩いている生徒は少ないだろう。
「持っているわけないだろう。僕は財布も持っていない。完全に手ぶらだよ」
この人は中でもまた特別だったが。
「財布を持っていなくてもいいですから、学食食えるくらいの金をポケットに常備しておくことをお勧めしますよ」
それと携帯くらいは持ち歩いたらどうです、と言った守に対して、兼彦は充電が切れているから持っていてもどうせ使えないんだ、と答えた。本当に駄目な生活をしている男だ。
「そうだ、時間割表なら部室に行けば誰かが置いていったものがありそうだよ」
そこまでして調べなくてもいいような気がしたが、兼彦は他人の金で食べた昼食で十分にエネルギーを得たのか、守が止める間もなくサークル棟へ向かって歩き出してしまっていた。
妙に張り切る兼彦の後を歩き、守はサークル棟のミステリ研究会スペースにやってきた。先に着いた兼彦がごそごそと棚や机をあさると、今年の時間割が出てきた。
「あ、やっぱりあったよ、時間割表」
それも、守が欲しかった一年次の時間割表だ。守は早速気になっていた今日の昼の授業を確認した。そこで、守は求めていた授業を見つけて微笑んだ。
「で? 西川先輩、そのカヤックは何の暗号を送っていたんですか? 早く教えて!」
その後、兼彦と別れてその日の講義を全て受け、何となくそのまま帰る気にならなかった守が、直人のいないことを確認して――ここは重要だ――ミス研の部室に居座っていたところ、昼食を確保して元気になった兼彦に昼間の話を聞いたという後輩の今井杏奈と、八尾京一がそろって守に詰め寄ってきた。
「まぁまぁ、落ち着きなよ、杏ちゃん」
なぜかそこで得意そうに口を出したのは、ただ行き倒れていただけの兼彦だった。
「人のいい西川先輩に学食をたかるような部長には聞いてないです」
そう言って兼彦に舌を出して見せた後輩に、守は感動してちょっと泣きそうになった。そうだ、やはり兼彦は典型的な少数派人間で、守は間違いなくその被害者なのだということを分かってくれている人がいるというのはなんとありがたいことだろう。守は感謝の念をありったけ込めて、話を聞きたくてうずうずしている杏奈に微笑みかけた。
「暗号というほどのものでもない、信号を送っていたんだよ。ぶっちゃけてしまえば、カンニングだね」
「カンニング? カヤックで?」
「そう、カヤックで」
守が考え方を変えたのは正解だったのだ。つまり、カヤックがその位置から何らかの信号を送るなら、どの位置からならその信号を捉えることができて、かつその信号を有効に使えるのか、ということだった。
「俺は多分、カヤックが縦や横になって信号を読ませるなら、上から見たほうが分かりやすいだろうと考えたんだ。そこで、池を上から見下ろすことのできる十号館に目をつけた。池側の講義室でやっている授業を時間割表で確認したら一年次の情報基礎論があったんだ。だから、多分カンニングだろうと思った」
守はその信号の羅列を実際に見てはいなから、あくまで可能性だけれど、と断りを入れた。
「でもカヤックの縦横の動きだけでテストの答えをどうやって教えたんですか? 動きに対する回答表まで組んでいたとか?」
こんなに暑い日にも関わらず、薄い長袖を着ている京一が不思議そうに口を挟むので、守は手を振ってその疑問に答えた。
「いや、そんな面倒なことは必要ないんだ。テストの内容はね、全部最終的な答えを二進数で出すものだったんだ。つまり横をゼロ、縦をイチとした二つの動きで十分だったんだよ。それと、各二進数の回答を区切るための一回転という動作だね」
「……たかが二進数の問題で大げさなカンニングを行ったんですね」
完全な理数系の京一にはまったく理解のできない行為なのだろう。まぁ、胸を張って理系です、とも文系です、とも言えない守のようなタイプにだって、ちょっと理解しがたい推理ではあったが。
「まぁ、毎年毎時間同じテスト問題を使っている教授の方もどうかと思うけどね。一応授業課には言っておいたから、次からはきっと窓際のカーテンを閉められてしまうだろうな」
何にせよ、いまどき携帯も使わずご苦労なことだよ、と守は続けた。しかもあんなに暑い時間に、汚い池の上で、送っていた信号は真か偽の二つだけ。見ていたのが信号を送る相手だけならまだ救われたけれど、何の因果か行き倒れの駄目学生も目撃者。壁に耳アリ、障子に目アリ。謎あるところにミス研部員アリ?
謎を提示するものがいれば、それを解く者もいるのです。
大学では前者が教授であり、後者が学生。
だから学び舎の住人達よ。もっともっと、高度な謎を求めなさい。